大患難期の舞台裏

October 22 [Wed], 2014, 11:31
聖書で預言されている大患難期が始まる前に教会は天に挙げられるが、ではその七年間に、教会時代の聖徒は天で何をしているのだろうか。その様子を、ヨハネの黙示録から考えてみよう。

ヨハネの黙示録4:4に「二十四人の長老」が登場するが、彼らは神殿で奉仕する祭司だと考えられる。歴代誌24:4から祭司の組は二十四組あった。そしてその組は、バプテスマのヨハネの父ザカリアの時代まで継続していた。(ルカ1:5)一組は二十四人で構成され、常にこの二十四人が神殿で奉仕していたと考えられている。さらに、彼らは金の冠をかぶっている。1ペテロ2:9でペテロは、信者を「王なる祭司」と呼んでいる。黙示録1:6、5:10でも、王国とし祭司とされたと書かれている。「二十四人の長老」は、神殿で奉仕する二十四人の王なる祭司、天の神殿で礼拝奉仕をする教会を象徴している。

では、教会は天で七年間礼拝奉仕をする意味は何だろうか。それを考えるにあたり注目すべき記事が、レビ記8:33にある。「また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入り口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。」この記事にある祭司が、教会または教会時代の聖徒の型だとすると、教会は大患難期の七年間に、祭司となるために天の神殿で任職式をあげていると考えられる。教会は、そのすぐ後に来る千年王国で、王なる祭司として地上を支配する。その準備ため、七年間天の神殿から出ることは許されないということだろう。教会時代の聖徒にとって、大患難期の七年は、過ぎ越しの七日間であり、キリストと教会の婚礼であり、王なる祭司となるための任職式だと言える。

もう一つ注目したいことは、黙示録5:8に、二十四人の長老は香のいっぱい入った金の鉢を持っていて、その香は聖徒たちの祈りだと書かれている。現代に生きるクリスチャンは、さまざまの場面で祈りをささげるが、その祈りは、この二十四人の長老が持つ金の鉢に積み上げられていると考えられないだろうか。きかれる祈りもそうではない祈りも、すべて主の日のために、天に、金の鉢に積み上げられるとすれば、すべて無駄ではないことが理解できる。このことから無理やり結論を導き出すと、恵みの時代に生かされているお互いは、おかれている状況はどうであれ、もっと祈るべきだということになるだろう。

日々祈りが足らない者だと自戒しつつ、やがて来るその日に、思いを馳せる。


ヤロブアムの罪

October 20 [Mon], 2014, 2:23
ソロモン王の死後、イスラエルはヤロブアムを王とする北イスラエルと、レハブアムを王とする南ユダに分裂した。ヤロブアムは金の子牛を二つ造り、一つをベテルに、もう一つをダンに安置し、そこで神を礼拝するようイスラエルの民に命じた。ヤロブアムは子牛を神として拝ませたわけではないだろう。1列王記12:28「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」とあるように、イスラエルをエジプトから救い出したヤハウェの神を拝めと言っている。金の子牛は神の台座ということだろう。では、ヤロブアムは何が悪いのだろう。

一つは、彼は礼拝する場所をエルサレムではなく、自分に都合のいいベテルとダンに定めた。二つ目は、祭司をレビ族以外から選び任命した。三つ目は、祭りの日を勝手に第八の月の十五日に定めた。神に近づくには、神が定めた方法でなければならないが、ヤロブアムは自分の都合のいいように定め、それを民に押し付けた。さらに悪いのは、彼はそれが神に受け入れられないと、内心気づいていたという点だ。自分の子アビヤが病気になっとき、ベテルにもダンにも行かず、シロ人の預言者アヒヤを頼った。ヤロブアムは、神が定めた方法ではなく、自分に都合のいい方法を勝手に定めた。また、必要なときだけ神を求めた。

これは、現代のクリスチャンにも当てはまるところがあるのではないだろうか。私は、苦しい時に神が助けてくれるように祈る。乏しい時に必要が満たされるように祈る。病気の時に癒されるように祈る。しかし、平穏なときは、あまり祈らない。また、祈るときも、私は本当に神を求めているだろうか。私の関心事は、神が自分に何をしてくれるかであり、神ご自身を求めていないと感じることさえある。本来は、神が支配する御国が広がることをまず求め、その他のことは神が万事益としてくださると信頼しつつ、個人の願いを求める方がいいと思うのだが、そうではなく、個人的な願いだけを祈り求め、アーメン!と終えてしまうことが多い気がする。

もう一つ、現代クリスチャンに見られるヤロブアムの罪は、自分に都合の良い神のイメージをつくることだ。その一つが、愛の神だけを強調する傾向があること。神は愛なる方である。同時に義なる方であり、聖なる方である。罪人の私は、愛の神により、信仰により義とされた。義とされたのだから、その地位にふさわしい聖さを身につけるように期待される。救われるために人間の行いは何も寄与しないが、救われたものとしてキリストの聖さに近づく歩みを、日々選び取って行く必要がある。愛なる神は、私の全ての罪を赦してくださるから、罪の中に留まっても大丈夫だと考えてはいけない。神の愛のご性質だけを強調し、義なる神、聖なる神は無視、というのでは、あまりにも都合が良すぎる。私はこの点で、大いに反省する。

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