「悔い改めなさい」 現在形からアオリストヘ

August 23 [Sat], 2014, 3:01
バプテスマのヨハネと(マタイ3:2)、イエスは(マタイ4:17、マルコ1:15)、「悔い改めない。」と言った。どちらもμετανοειτε というギリシャ語で表現されている。それに対し、ペテロも(使徒2:38、3:19)、「悔い改めなさい。」と言っているが、この場合は μετανοησατε という単語が使われている。

これらの二つの単語の違いはなにか?唯一の違いは時制だ。ヨハネとイエスは“現在形”で悔い改めることを命じ、ペテロは“アオリスト”という時制で悔い改めるように命じている。また、前者はイエスが十字架に掛かる前で、後者は十字架の後の場面だ。つまり、十字架の前は“現在形”で、十字架の後は“アオリスト”に変わったことになる。

旧約時代はことあるごとに、人間の罪を贖うため生贄の動物の血が流された。過ぎ越しの祭りでは、毎年羊をほふり祭壇で神に捧げられた。しかし、100%神であるイエスが100%人間となり十字架で払われた犠牲は、アダムから大患難時代まで、全人類の罪を完全に贖った。動物の犠牲は、その時、一時的な効力しかなかったが、イエスの十字架での犠牲は、永遠であり完全であった。そのためそれ以降は、祭壇で動物を捧げる必要はなくなった。

イエスの十字架の死が一度限りのイベントで完成したように、私たちの悔い改めも一度限りのイベントで、救いを完成させる。バプテスマのヨハネとイエスが生きていた時代は、十字架の罪の贖いがまだ成就していないため、何度も繰り返し悔い改める必要があった。しかし、ペテロが語った時は時代が変わり、十字架の贖いが成就した後であるため、一度限りの悔い改めで救いは完成し、しかも効力が失われることは永遠になくなった。

あなたは「信じる者は永遠のいのちを持ちます。(ヨハネ6:47)」というイエスの言葉を信じているだろうか。永遠の命を得たのであれば、何があろうと救いは取り去られることは、決してない。

ペテロが“アオリスト”の時制で命じた「悔い改め」は、あなたの人生において一度限りのイベントであり、時間の経過や記憶の薄れに応じて何度も繰り返されるようなものでは決してない。イエスキリストの十字架の贖いは完全で永遠なのであって、そこに人間が加えられるものは何一つ、無い。

長春との交流、あれから10年

August 18 [Mon], 2014, 18:09
 仙台JCが長春青年聨合会と、友好関係締結の調印を締結したのは2005年、会場は人民大会堂、そこはニュースで見るだけの場所で、自分がそこに行くことになるとは夢にも思わなかった。全人代の大会議場の中央で、当時の聨合会副主席の張氏と調印を交わし、その後には盛大にレセプションが開催された。そして日本料理屋で、トイレに行く時間も惜しんで、さしで話した2時間は、今でも忘れられない。さし、といっても通訳をはさんでだけど。(長春市外事弁公室の尹さん、お世話になりました。)長春と仙台の交流がなぜ重要か、当時はことあるごとにメンバーに話していたが、誰も覚えていないだろうから、簡単に書いておきたいと思う。

 長春市は、中国東北地方の中核都市で、人口300万、周辺地域を含めると700万の大都市だ。農業と自動車産業が盛んで、国際映画際など文化的イベントも開催される。吉林大学や東北師範大学などの教育機関や研究機関が数多く設置される、近代的文化都市と言える。

 また、旧満州国の首都、新京が置かれた町であるため、中国では数少ない“民間人の日本人”を知る地域でもある。戦後帰国が叶わなかった多くの日本人孤児を、我が子として育てた養父母が大勢いたが、長春市平陽街にある中日友好楼には、2006年当時、まだ健在で暮らしている養父母が数名いたと聞いている。若い世代でも、祖父母から、優しい日本人の話を聞かされていた、という観光ガイドがいた。そのこともあり、彼女は日本語を勉強し、観光ガイドになったという。

 現在の中国に、日本に批判的な民衆は、実際多いかもしれない。しかし、日本のマスコミによる報道から受ける印象と、現地の中国人と交流して受けた印象では、180度と言っていいほど違う。彼らはとても友好的で、私たちが示した友好的は発言や態度を、何年も覚えている。一度会ったら友人、二度会ったら親友、と言うらしいが、本当にそんな印象を持つ。2010年に訪中した時は、その5年前とは大きく変わり、聨合会メンバーで個人的に訪日経験のある女性メンバーがいた。彼女は、日本での店員の接客方に、とても感心していた。訪日の前後では、日本の印象が大きく変わったと言っていた。

 交流を継続すれば、その成果は確実に大きくなる。中国がどういう国家体制にあったとしても、どんな国民性だとしても、全くかかわりを持たずにいることはできない。中国も少子高齢化が急速に進み、これまでのような経済発展は難しいだろう。経済的なメリットを考えれば、むしろASEAN諸国との絆を堅固にした方がいいのかもしれない。しかし、地理的に近い、中国・韓国は、文字通り隣国であり、一方に問題が生じれば、多少とも影響を受ける関係になる。また、たとえ国家同士が対立する局面があっても、個人的な交流が大きく発展していれば、最悪のシナリオは避けられることもあるかもしれない。長春が日本にとって特別な都市であるとすれば、仙台JCが長春青年聨合会と交流を継続することは、日本の国益に少なからず寄与すると思う。

ヨナのしるし

August 16 [Sat], 2014, 17:27
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。(ルカ24:5)

この聖書個所は、イエスが十字架で死んだ三日後に、マグダラのマリヤたちが、遺体に香油を塗るために葬られたアリマタヤのヨセフの墓に来てみると、イエスのからだが見当らず途方にくれる。そこに御使いあらわれ、彼女たちに話しかけるという場面だ。

 ルカの福音書では、御使いが最初に話しかけた言葉は、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」という問いかけだった。この質問は、答えを求めているわけではない。彼女たちに考えさせようしているのだろう。イエスが捕らえられる前に、弟子たちに何度も語られた、人の子の復活についての話を、思い出させようとしている。その記憶が少しずつ、あるいは一瞬でよみがえるのに合わせて、御使いは、人の子の復活について語り始める。

 御使いは、イエスを「生きている方」と呼んでいる。ギリシャ語ではτὸν ζῶνταとなるが、分かり易く英語にすると、the living となる。(冠詞+形容詞で、「〜の人」と言う意味になる。)つまり、生きるという動詞 ζαω の現在分子形に定冠詞の τον が付いたもので、単数形だ。新約聖書で、このζῶνταは、6回使われ(ルカ24:5、使徒1:3、7:38、14:15、20:12、1ペテロ2:4)、そのうち5回は、御子・みことば・メシアなど、ヤハウェの神を形容する表現として使われている。(使徒20:12は例外で、3階から落ちて一度死に、パウロによって蘇生された少年に使われている。)つまり、御使いが彼女たちに話した「生きた方」とは、死からよみがえった方であり、天地創造の前から生きておられる、ヤハウェの神ご自身を表しているのだろう。

 イエスは金曜日の午後3時に、ご自分の意志で息をひきとられ、三日後の日曜の早朝に復活された。その間にハデスに下りそこで勝利を宣言され、アブラハムのふところにいた旧約時代の聖徒を引き連れ昇天された。三日間地の中にいることは、イエスは預言していた。

ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ12:40)

その後、イエスは四十日の間弟子たちにあらわれ、神の国の事を語ったとある。その四十日間に、それまでイエスから学んだことを、もう一度聞いたかもしれない。あるいは、少ない言葉で、悟ったかもしれない。いずれにしても、現在私たちが聞いている福音の骨格になったと考えられる。イエスの復活後に弟子たちの霊の目がひらかれ、神ご自身から学んだ内容を、できるだけそのままを、学び、伝えていきたい。聖霊の導きによって。

あなたの栄光を見せてください

August 14 [Thu], 2014, 19:37
「すると、モーセは言った。『どうか、あなたの栄光を私に見せてください。』」(出エジプト33:18)

この聖書個所は、モーセがシナイ山で四十日四十夜ヤハウェの神と語り合い、神から授かった二枚のあかしの板を、金の子牛を作り拝んでいた民を見るなり砕いてしまう、その後の場面だ。モーセはどんな経緯で神の栄光を見たいと願ったのだろうか。

 神はモーセに、「約束の地へは一緒に上らない」と言われる。その理由は、民があまりにも邪悪なため絶ち滅ぼしてしまうといけないから、というものだった。ヤハウェの神は、人が友と語るように顔と顔を合わせてモーセと語った、とあるが、それだけ親しく神と語ることができたモーセが、神に、「あなたが一緒に来ていただけないなら代わりに誰を遣わすかを知らせてください」と願う。その答えは、驚くことに、「私自身が一緒に行く」というものだった。さっきは、「一緒に行かない」と言い、今度は「一緒に行く」と言われる。どういうことだ?

 この間にモーセは、イスラエルの民はあなたの民であることを忘れないでください、と懇願している。神は、そのモーセの言葉を聞き入れたのかもしれない。または、わたしは行かないが、もう一人のわたし(第二位格の神)を遣わす、という意味だったのかもしれない。いずれにしても、ヤハウェの神が一緒に上ってくださるのだから、一件落着だ。しかし、モーセはそこで終わらない。彼は神に、「あなたの栄光を見せてください。」と求めるのだ。

 モーセは神の栄光の御姿を見ることができるのか?もしできたとしても、もう生きてはいられないだろう。見た瞬間に死んでしまうに違いない。するとヤハウェの神はこう言われる。

「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(出エジプト33:21-23)

「岩の上」「岩の裂け目」とあるが、「岩」は聖書で象徴的に用いる場合は例外なくメシア、つまりキリストを意味する。ということは・・・、神様がモーセの前を通り過ぎるときに、彼を入れた裂け目のある岩は、メシアであるイエス・キリスト、ということになる。では、裂け目は十字架のことかもしれない。「わたしのかたわらに」とあるから、メシアであるイエスは受肉前から、父なる神のかたわらにおられたということを暗示しているかもしれない。興味は永遠に尽きない。
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