概算の手法

June 28 [Sat], 2014, 17:23
 昨夜、NHKの白熱教室で、物理学では物事を大雑把に捉えることが大切、という話をしていた。数値の計算も「概算」でいいと。クラウス教授は、3ケタの掛け算を3秒で答えろという。例えば、523×248、であれば、解説はこんな感じ。523 は 5.23×(10の2乗) とし、248 は 2.48×(10の2乗) とすると、5.23×2.48はおおよそ10だから、10×(10の2乗)×(10の2乗) となり、答えは概算で 10の5乗 となる。1.297×(10の5乗) も、10の5乗 も大差はないというのだ。

 先日、大学時代の親友が出張で東京から仙台に来たので、会食をし、久しぶりに昔話に花を咲かせた。4年の春休みに、彼と2人でアメリカ旅行に行ったことがあった。写真は撮らない、観光はしない、というルールを決め、その結果、多くの忘れがたい経験をした。その時、レンタカーで自分たちが走った距離を計算してみた。1日約600kmを16日間走ったから、概算で1万キロ。地球一周が4万キロだから、その4分の1を走ったことになる。なんとなく、地球の大きさがわかったような気がした。クラウス教授の話を、私なりにしごく簡単にすると、こういうことになるのかもしれない。

 私たちが聖書を読むとき、霊的著者である神の意図を理解することは、けっして簡単ではない。日本人の信仰者が誰の助けもなく、創世記から黙示録まで数回通読したとして、どれだけ理解できるだろうか。おみくじのように、たまたま開いた聖書個所から、「御言葉が与えられた」と安易に考えてしまう私たちに、どれだけ真理が理解できるだろうか。それが難しいのであれば、これまで信仰の偉人たちが積み上げてきたものをもとに神の御計画を大づかみで捉え、近視眼的にではなく、全体を俯瞰した上で聖書を読むことが必要だろう。

 聖書全体を大づかみにする一例として、天地創造と終末はシンメトリーになっている、という点がある。創世記1:1で神が創造した天地と、黙示録21:1の新しい天と新しい地には対称性がある。創世記2:8のエデンの園と、黙示録20:6の千年王国には対称性がある。つまり、千年王国(神の国)はエデンの園の回復であり、新しい天と新しい地は神が初めに造った天と地の回復である。また、前回ブログで書いたとおり、イスラエルの7つの祭りを学ぶことは、神の人類救済計画を理解する助けになる。

 一方で、神学的立場や終末論の違いで分裂することは愚かであり、また真理を安易に単純化することは危険だと感じる。だからといって、「終末はどうなるかわからないから、わからないままにしておこう」というのは、賢い者の判断ではないだろう。私たちの人生で、過去に起こったこと(救い)と同様に、将来必ず起こること(神の御国)を、学ぶ必要がある。なぜなら、そこにキリスト者の最大の希望があるから。

イスラエルの7つの祭り

June 21 [Sat], 2014, 21:16
 イスラエルの7つの祭りのうち4つが春の祭り、3つが秋の祭りだ。これらの祭りは、預言的には、キリストの初臨と再臨を意味する。春の祭りから見ていく。

(過ぎ越しの祭り)
レビ記23:5「第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。」とある。過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトで奴隷だったとき、神がエジプト中の初子を打つが、その災いはイスラエル人の家を過ぎ越し、その家の初子は生かされたことを記念している。
 預言的には、イエスの十字架で成就する。過ぎ越しの祭りでは、いけにえをニサンの月の10日に用意し、4日間吟味して後14日の夕暮(日没から15日に入る)にほふり食し、神殿の祭壇には15日の朝に捧げていた。イエスは日曜日にエルサレムに入場するが、その日はニサンの月の10日だった。その後4日間パリサイ人や律法学者、サドカイ人らに吟味されるが罪は認められず、15日金曜日の朝に十字架にかけられた。日にちが見事に一致する。また、パウロは、過ぎ越しの子羊とキリストを関連させている。(1コリ5:7)
 過ぎ越しの祭りは、イエスの十字架の死で成就した。

(種なしパンの祭り)
レビ記23:6「この月の十五日は、主の、種を入れないパンの祭りである。」とある。この祭りは7日間続くが、その期間は、平たい種入れぬパンを食べなければならない。(出エジプト12:15〜20) 聖書ではパン種は罪を象徴する。また、パウロは、種なしパンの祭りと、キリストの血潮を関連させている。(1コリ5:7〜8)
 種なしパンの祭りは、イエスが罪のない血を捧げたことで成就した。

(初穂の祭り)

レビ記23:10「わたしがあなたがたに与えようとしている地に、あなたがたがはいり、収穫を刈り入れるときは、収穫の初穂の束を祭司のところに持ってくる。」とある。この祭りはいつ執り行うのか。11節に「祭司は安息日の翌日」と書いてある。つまり、過ぎ越しの祭り後の最初の安息日(土曜日)の翌日(日曜日)ということだ。過ぎ越しの祭りが預言的に十字架を意味するとすれば、初穂の祭りとイエスの復活の日が一致する。また、パウロは、キリストの復活と初穂を関連させている。(1コリ15:20〜23)
 初穂の祭りは、イエスが死から復活したことで成就した。

(七週の祭り)
レビ記23:15「あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。」とある。私たちの教会暦でいえば、イエスの復活から7週後の日曜日であるから、この祭りは聖霊が降り教会が誕生したペンテコステを意味することがわかる。
 七週の祭りは、使徒の働き2章の教会の誕生で成就した。

 以上、春の祭りの4つは、メシア預言としては、約2千年前に成就した。では秋の3つの祭りについてはどうなるだろうか。それらは、これから成就する。では、一つひとつ見ていく。

(ラッパの祭り)
レビ記23:24「第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。」とある。イスラエルの民は、この日にラッパ(角笛)を吹き鳴らした。ネヘミヤ8:2〜12は第七の月一日目の記事だが、11節に「悲しんではならない」、12節には「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。」とあり、この日が喜びの日だとわかる。
 ラッパの祭りは預言的に携挙を意味するが、携挙は現代のクリスチャンにとって大きな喜びである。なぜなら、花婿であるイエスが、花嫁である教会を迎えに来ることを意味するからだ。伝統的なイスラエルのしきたりでは、花婿は花嫁を迎えに彼女の住む町へ行き、彼女を自分の町へ連れ帰り婚礼を挙げる。迎えに行くタイミングは、花婿の家に部屋を増築するなどし場所を備えた後に、花婿の父が決める。
 イエスはこう言われた。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。(ヨハネ14:3)」またこうも言われた。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。ただ父だけが知っておられます。(マタイ24:36)」
 そして、パウロは、1コリント15:52、1テサロニケ4:16において、ラッパの祭りと教会の携挙を関連させている。ラッパの祭りは、携挙をもって成就すると考えられる。

(贖罪の日)

レビ記23:27「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。」とある。この日の特徴は「身を戒める」ことにあり(民数記29:7)、捧げものはイスラエルの民全体の罪を贖うためだった。彼らはこの日を最も厳粛な日として、神の前に悔い改めた。贖罪の日は、預言的には大患難時代を意味する。この時代は携挙の後に来る終末のイベントで、イスラエルの民は肉体的にも霊的にも苦難を経験し、そして最後にイエスをメシアとして受け入れ仰ぎ見るようになる。(ゼカリヤ12:10〜13:1) つまり、贖罪の日は、大患難時代で成就すると考えられる。

(仮庵の祭り)

レビ記23:34「この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。」とある。この祭りは、出エジプト後にイスラエルの民がシナイの荒野を旅したことを記念している。7日間の祭り期間に、雄牛70頭がいけにえとして捧げられた。(民数記29:12〜34) その捧げ方が実にユニークだ。1日目は13頭、2日目は12頭、3日目は11頭と1頭ずつ少なくなり、7日間で合計70頭になる。そのいけにえは、ノアの子どもから派生した70の諸支族(創世記10章)のためと考えられる。つまり、メシア預言的に、仮庵の祭りは千年王国を意味するが、そのときは、異邦人もエルサレムに上りこの祭りを祝うことを暗示しているともとれる。
 千年王国は、イエスと教会の結婚披露宴に例えられる。(マタイ22:1〜14) イスラエルの伝統的な披露宴は、仮庵の祭りの期間と同じく7日間続く。つまり、仮庵の祭りは千年王国によって成就すると考えられる。

 今私たちが生きているこの時代は、春の祭りと秋の祭りの中間期間にある。この中間期間にある私たちは、次に来るイベント「携挙」をただ待っていればいいのだろうか。イエスはこう言われる。

「『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)

心の貧しい者は幸いです

June 18 [Wed], 2014, 0:00
 クリスチャンの信仰生活は、短距離走ではなく、長距離走だから、無理をしても続かない。第一、表面だけつくろっても、神はすべてお見通しだから、なんの意味もない。20年以上通っていた教会を離れ、教会難民の状態になり、そのことをしみじみ実感した。これまで、自分が信者である証は、地域教会のメンバーということだけだった。毎週日曜日は教会に集い、兄弟姉妹と交わりをし、賛美し、聖書を読む。礼拝に参加しメッセージを聞くことで、神の言葉を聞いていると思うことができた。その教会を離れ、自分に関心を持って見守ってくれる兄姉を失ったとき、神との関係だけが残った。「心の貧しい者は幸いです。」とあるが、地域教会に繋がっていたころは、心は貧しくなかった。だから、神を求める思いも弱かったのだと思う。

 約2千年前のイスラエルの指導者たちは、言い伝えの律法を守ることで、モーセの律法を守っていると信じていた。心は貧しくはなく、神を求める霊的状態ではなかったため、最終的にイエスを拒否した。一方、イエスを信じたのは、罪人や取税人であり、十二年の間長血をわずらった女であり、会堂管理者のヤイロであり、ローマの百人隊長だ。彼らはパリサイ人や律法学者のように、聖書に詳しくなかったが、心貧しく神を求めていた。ルカ15章の二人の息子のうち、救われているのは、財産をすべて使い果たし父親に助けを求めた弟息子の方であり、父親と共に暮らし仕えてきた兄息子は失われたままだ。

 「クリスチャンになっても苦難に会うのはどうして?」と聞かれることがある。神は苦難を通して祝福してくださる。「かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。―主の御告げ―(エレミヤ31:28)」引き抜いたあとに、また植えると、神は約束してくださる。神は全能だけれど、できないことが二つある。それは、罪を犯すことと、約束を破ること。神は苦難のあとに、それ以上に祝福を備えていてくださる。その中で最も大きな祝福は、「神を求める思いを心に深く植え付けてくださる」ことだ。

人の話を聞いていない子ども

June 17 [Tue], 2014, 15:34
先週うちの教室で、講師と小4の男子生徒間で、こんな会話があった。

講 師:K太郎、いま先生が言ったこと聞いてた?
K太郎:ぼく、みんなに同じこと言われる。学校で先生にも言われるし、
    おばあちゃんにも、お母さんにも、お父さんにも、
    弟にも言われる。
講 師:そうなの、じゃ先生の言うこと間違ってないね。

授業が終わり、生徒が帰ってから、講師と二人で、授業の進め方について話し合った。そこでこちらから、3つのことをお願いした。

一つは、生徒のタイミングで話をすること。注意散漫の生徒は、常に先生の指示を聞ける態勢にはない。指示を出す前に、ひとつふたつ、注意を先生に向けさせるアクションを入れる必要がある。

二つめは、話すことば、内容をもっともっと簡単にすること。小学4年生ころからしだいに抽象的な概念を理解するようになる。勉強が苦手な子どもは、その切り替わりのタイミングが他の子より時期が遅いというケースがある。そういう場合は、もっと具象的な題材で勉強を積み重ねる必要がある。

三つ目は、学校や家とは違う言葉をかけること。「いま言ったこと聞いてた?」と学校でも家でも言われてるい上に、塾でも同じことを言われたら、だれでもイヤになるだろう。せめて、塾では、もっとちがう言葉をかけてやりたいものだ。どういう言葉がいいのか?そこは、あなたの力量にかかっている。

「清め」と「聖め」と「きよめ」について

June 07 [Sat], 2014, 20:00
 新改訳の新約聖書では、「清め」「聖め」「きよめ」と3通りの表現がある。それぞれギリシャ語の原語ではどうなっているのか、意味の違いはあるのか、ということを調べてみた。

 「清め」は、(ヨハネ11:55、使徒21:24、使徒21:26、使徒24:18、1ペテロ1:22)の5つの聖書個所に6回でてくる。うち5回が動詞「ハグニゾー」、1回が名詞「ハグニスモス」が使われている。ここでは、動詞の「ハグニゾー」の意味を考えることにする。銘形秀則先生の「牧師の書斎」には、こう解説されている。以下抜粋、『・・・この言葉は花婿と花嫁、あるいは夫と妻とのうるわしい関係を表わしています。「清くする」とは、夫となる花婿のキリストに対するかかわりにおいて、「純潔」「貞潔」「従順」な関係を意味するのです。』

 「聖め」は、(ヨハネ17:17、ヨハネ17:19、1コリント1:30、1コリント7:14、2テサロニケ2:13、1テモテ4:5、2テモテ2:21、ヘブル9:13、ヘブル12:14、1ペテロ1:2)以上10の聖句に、動詞「ハギアゾー」が8回、名詞「ハギアスモス」が4回、形容詞「ハギオス」が1回使われている。動詞の「ハギアゾー」はどういう意味なのだろうか?銘形先生の解説にはこうある。以下抜粋、『・・・「あがめられますように」と訳された動詞は「ハギアスセートー」。その基本形の「あがめる」は「ハギアゾー」で、新約で28回使われています。「あがめる」の他に、「聖なるものとする」、「聖別する」、「聖め別つ」とも訳されています。』

 新改訳聖書で「清め」と訳されているギリシャ語は「ハグニゾー」であり、「聖め」と訳されているのは「ハギアゾー」だということと、それぞれの意味は理解できた。では「きよめ」という訳は、対応するギリシャ語の単語があるのだろうか?

 「きよめ」を検索すると35の聖句がヒットした。それらの聖句を調べると、7つの単語に絞られるが、動詞「カサリゾー」、名詞「カサリスモス」、形容詞「カサロス」と同じ意味をもつ言葉群が全体の92%を締めた。では、動詞「カサリゾー」はどういう意味なのだろうか。それぞれの聖句を見てみると、@ツァラアト患者のきよめ(マタイ10:8,11:5、ルカ4:25,7:22、17:14)A食事のための杯や器のきよめ(マタイ23:25,26)B身体や心の汚れからのきよめ(2コリント7:1、ヘブル9:14、ヤコブ4:8)C罪のきよめ(ヘブル9:22,23,ヘブル10:2)、という意味が浮かび上がる。当時は、ツァラアト患者の癒しはメシアしかできない奇跡だと考えられていた。イエスがそれを行ったということは、イエスがメシアだというしるしだった。人を罪から解放することもメシアにしかできない。ツァラアト患者の癒しは、罪の赦し、十字架の贖いの型となっている。

 今回は、「清め」「聖め」「きよめ」の3つの訳が、ギリシャ語ではどの単語に対応しているのかを調べてみた。なにげなく読み過ごしていたが、翻訳者の明確な意図と、繊細な作業の一端を垣間見たような気がする。
2014年06月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
最新コメント
アイコン画像MEPS後輩より
» こわれた水ため (2015年11月21日)
アイコン画像中川誠一
» 大患難期の舞台裏 (2014年11月25日)
アイコン画像中川誠一
» ディカイオスな人たち (2014年11月25日)
アイコン画像Tos
» 私たちは変えることができる (2014年08月18日)
アイコン画像蒼井美和子
» 私たちは変えることができる (2014年08月18日)
アイコン画像Tos
» 石巻市北上町を訪問して (2011年05月05日)
アイコン画像ami-s
» 石巻市北上町を訪問して (2011年05月05日)
アイコン画像ami-s
» 無口な生徒の落書き (2011年02月03日)
アイコン画像hosi
» 中学受験で何を得るか? (2011年01月31日)
アイコン画像Jeff
» 福萬飯店 (2011年01月10日)
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:Tos
読者になる
http://yaplog.toshikiabe.com/index1_0.rdf