イシュマエルへの神の約束

March 24 [Mon], 2014, 0:28
 アブラムの妻サライは、彼女の女奴隷ハガルを夫に与えた。ハガルはアブラムに男の子を産み、その子はイシュマエルと名付けられた。イシュマエルは、アブラハム契約を継承する系図からは外れるものの、神から大いに祝福される約束を与えられる。それも一度ではない。

創世記16:10で、神の使いが、サライのもとから逃げて来たハガルに言われた。「あなたの子孫は、私が大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

創世記17:20では、神は、イシュマエルの祝福を願うアブラハムに言われた。「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞きれた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」

創世記21:13で、ハガルとイシュマエルを追い出すことに悩むアブラハムに、神は言われた。「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

創世記21:17〜18で、イシュマエルの死を覚悟したハガルに言われた。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」

 現在イシュマエルの子孫はアラビア人、またはアラブ人と呼ばれる人々と考えることができる。アラビア語を母語とする人口は2005年で2億3千万人と言われ、アラビア半島、西アジア、北アフリカにあるアラブ諸国の人口は2009年に3億4千万人に達し、まだまだ人口増加率は高い。

 ヤハウェの神は契約の神であり、ご自分のご性質のゆえに、契約を反故にされることは決してない。イザヤ書19:25、万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリア、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」現在のエジプトやシリアには、主にアラビア人が住んでいる。日本で暮らす私たちは特に気づかないが、聖書に記された神の人類救済計画は確実に成就しつつある。イシュマエルに対する約束でさえ、これほどに現実になっているのだから。

 イシュマエルは荒野で、皮袋から水を与えられ命を得た。イサクはモリヤ山で、羊が身代わりでいけにえとなり命を得た。イエスは、生ける命の水であり、最後の過越の子羊である。

セントエルモス

March 17 [Mon], 2014, 0:19
学生時代、レンタルで繰り返し借りた映画が
先日テレビで放映されたので録画した。
前半は酷い内容で見ていられなかった(笑)
でも、最後まで見て、
二十歳前後の自分が何を考えていたか
記憶がよみがえった。

小さなコンプレックスと挫折
人のあたたかさと同時に醜さを経験
夢と現実、期待と不安、野心と砕かれる自信

将来の自分のイメージは描けず
社会貢献なんて言葉は聞いたことがない
バブル景気で社会全体が追いかけてた富は
結局五年後に蜃気楼のように消えてなくなる

そのころ思い描いていたものと
今手にしているものとは、何も繋がらない
今手にしているものは、妻一人子ども二人
その子どもはもうすぐ社会人になる

二十五年前に帰郷し働き始めたころと
今の心境は似ているかもしれない
今後二十五年後にどうなっているか?
思い描けるような気もするが、答え合わせでは
多くのサプライズがある、かもしれない

楽しみだね!

公立高校入試結果発表の日

March 12 [Wed], 2014, 23:50
今日は宮城県の公立高校入試の合格発表の日だった。

午後3時5分、教室の電話が鳴る。
「合格だ!」と思った。
発表時間から5分後に電話をよこすのだから合格に違いない。
電話をとると

「〇〇〇です。合格しました!」 声が弾んでいる。
「だろう、だから心配ないって言ったじゃない。
今日は合格祝いで、何か美味しいもの食べて。」
と言って電話を切る。

その後次々合格の連絡が入ってきた。
しかし、一人心配の生徒からは連絡がない。
ダメだったかぁ・・・・・・

夜の8時過ぎ、教室が一番活気づく時間
たまたま体験授業の生徒が二人重なったこともあり
バタバタしていると、
心配だった生徒が、お母さんと教室に入って来た。

二人の顔を見て合格したことが分かった。
うれしさのあまり、お母さんをハグしそうになるが、
なんとかこらえて、互いに握手で喜びを分かち合った。

震災後の学習塾経営は楽ではない。
正直やめようかと思うこともあるが、
毎年この時期、生徒と親御さんの喜んだ顔をみると
やはり、やめられない。

来年度もガンバロウ!
受験生は年1回のチャンスに勝負を掛ける。
こっちも一年々々が勝負だ。

神の計画と大震災

March 09 [Sun], 2014, 16:30
 震災から3年が経とうとしている。私が通う近所の教会では、「東日本大震災記念礼拝」とうたい、音楽と詩篇の朗読による礼拝がもたれた。その中で牧師先生が、「どうしてこんな事が起きるのか、いまだにわからない。」と話されていたが、誰もが同じ思いだろう。震災直後、何人もの先生方が被災地を訪れ、励ましのメッセージを語ってくださった。私はその中に震災が起きた理由を見出そうとしたが、一様に「それはわからない」と言葉を繰り返した。被災者を前に、神学的な話をしても意味がないという配慮はあったろう。しかし、なぜこんな悲劇が起こるのか?その答えが、津波や原発事故で苦しんでいる方々の慰めになるわけではないが、自分自身が前を向いて歩いていくために必要だった。

 3年後の今、自然災害がどうして起きるのか?という問いの答えを、自分なりに出すことができた。自然(被造物)はアダム(人間)がエデンの園で罪を犯して以来のろわれたものとなった。〔創世記3:17〕私たちが自分の罪深さのため苦しむように、空も海も苦しみうめいている。災害時以外のほとんどの時間に、生きる上で欠かせない多くの恵みを人間にもたらす自然は、神が最初に創造された姿とは違うものになってしまった。原因は神にあるのではないし、自然そのものにあるのでもない。人間が神との契約を反故にしてしまったことにある。人間が神から離れ罪を犯すように、自然も時折狂ったように猛威をふるい人間に襲いかかるのだ。では、人間を愛し、一人ひとりを罪ののろいから救おうとされる神の御計画の中で、災害をどう位置づけたらいいのだろうか?

 ローマ8章18節に「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足らないものと私は考えます。」とあるが、この「考える」と訳される「ロギゾマイ」という動詞は、「よくよく計算して結論を出す」という意味がある。つまり、見えることだけでなく見えないことも、今だけでなく将来約束されていることをも考慮して結論を出しなさい、ということだろう。では、「将来私たちに啓示されている栄光」とは何か?それは、被造物にとっては「神の子どもたちの現れ」〔ローマ8:9〕であり、私たちにとっては「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること」〔ローマ8:23〕である。そのために、今は被造物も人間もうめき産みの苦しみの中にある。しかし、もうおひとかたもまた同じように「うめいている」と聖書は言う。ローマ8章26節b「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」27節b「御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」ヤハウェの神ご自身が、深いうめきによってとりなしてくださるのだから、よくよく考えてみると、これ以上平安なことはない。

 私たちには、災害で苦しんでいる人間の姿しか見えない。だからといって、怒りの矛先を、自然や神に向けてはいけない。自然も御霊も私たちと同じように、神の御国の産みの苦しみの中でうめいている。被造物(自然)は自らの意志でのろわれたのではなく、支配者である人間が罪を犯したために虚無に服した。だから人間が栄光の姿に変えられるとき、被造物も栄光の自由の中に入れられる望みがある。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。」〔ローマ8:19〕被造物が切実な思いで待ち望んでいるのだから、私たち自身が、名実ともに神の子どもとされる瞬間を、熱心に待ち望むのは当然だろう。将来私たちに啓示されていること、携挙、患難時代、地上再臨、千年王国、新天新地など、これらについては解釈が分かれることもあり、教会でさえあまり語られない。しかし、クリスチャンにとって最大の希望がここにあるのだから、解釈の違いは互いに許容しつつ、今の苦しみをはるかに凌駕する喜びを分かち合いたいものだ。

山上の説教

March 03 [Mon], 2014, 13:19
 マタイの福音書5:3〜10「山上の説教」の聖書個所から、動詞の時制が示す意味からイエスの言葉について考察する。3節と10節はともに直説法・現在形の「エスティン」が使われ、4節から9節までの動詞はすべて直説法・未来形が使われている。現在形は「〜し続ける」と動作・状態の継続を表し、未来形は将来必ずそのようになる、ということを表している。その二つを踏まえ見ていく。

 「心の貧しい人」(5:3)と「義のために迫害されている者」(5:10)に対して、「天の御国はその人たちのもの」と現在形で書かれている。つまり、天の御国は継続して、心の貧しい人と義のために迫害されている者のものであり続けているという意味になる。直前のマタイの福音書4章では、前半はイエスがサタンの試みに会う場面で、後半がバプテスマのヨハネが捕らえられた後イエスが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と宣教を開始される場面だ。彼のうわさを聞いてシリア全体から集まってきた群衆に向かって、イエスは、近づいている御国はあなたがたのような「心の貧しい者」のものだ、と話されたのだろう。「義のために迫害されている者」とは、つづく11節にあるように、将来信仰のために迫害される人生を群衆の中に見ていたのかもしれない。

 4節から9節までは未来形になっているので、将来必ずそのようになるという意味だが、いつのことを言っているのだろうか。答えは二つ考えられる。一つは地上生涯でそれらが成就する。生きる意味を見失い人生をさまよっている人が、イエスに出会い十字架の意味を知る、その時がそうかもしれない。信徒が最初の喜びを忘れ、霊の戦いに負け続けているような状態で、より深い神の愛を知る、その時がそうかもしれない。イエスをメシアとして受け入れた者は皆、御国に入るしるしとして御霊が内住してくださることが約束されている。もう一つは、地上生涯を全うし天に召される時、あるいはイエスが地上再臨し千年王国が来たとき、それらの約束は完全に成就する。イエスは「山上の説教」の直前に、「天の御国が近づいたのだから」と宣教を開始された。その天の御国が地上に実現した時がその時、というのが最終的な答えになるだろう。

 悲しむ者は慰められ、柔和な者は地を受け継ぎ、義に飢え渇く者は満ち足り、あわれみ深い者はあわれみを受け、心のきよい者は神を見、平和をつくる者は神の子と呼ばれる、そういう時が必ず来るとイエスは約束してくださった。山上で群衆に語られた時と同じまなざしで、神様は私たちを見ていてくださる。自分の罪深さのゆえ悲しみに打ちひしがれるときも、正しい判断ができず義に飢え渇くときも、愛なる神は私たちを見ていてくださる。神ご自身が私たちとともにおられて、私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫び、苦しみもない時が必ず来る。
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