放蕩息子のたとえ話

May 19 [Mon], 2014, 21:49
 ルカの福音書15章11節から32節は、イエスが語られた、二人の息子がいる父親のたとえ話だ。放蕩息子のたとえ話、という方がわかりやすいかもしれない。ルカ15:28bには「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。」とある。ここの「なだめてみた」のギリシャ語「パレカレイ」の時制は、未完了形だ。未完了形は、過去の動作の継続・反復を表す。父親は兄息子の気持ちをなだめようとしたが、兄息子は父親に不満をぶつける。その後も父親は、兄息子をなだめ続ける。兄息子の心に内には、弟に対する強いねたみが生まれていた。「自分は父親と共に暮らし、父親を助け働いてきたにもかかわらず、どうして弟だけをかわいがるのだろう。」

 では、父親の立場になって、二人の息子に対する思いを想像してみる。弟息子が自分のもとを去り、ゆくえがわからないときは、心配でしかたがなかった。自分がまだ健在にもかかわらず、財産の一部を要求した非礼の記憶はすでに無く、ただ息子のことを案じる。兄息子に対しても同じく深い愛情を持っていたはずだ。しかし、兄息子は父の思いを理解できない。父親は、弟息子が生きて帰ってきたことを、兄息子と共に喜びたかっただけだろう。

 15章の初めには、イエスの話を聞こうとする取税人・罪人と、イエスを批判するパリサイ人・律法学者が登場する。当時、取税人・罪人は、不道徳また反社会的な生活をしていたとすると、当然霊的にも神から遠く離れた状態だったはずだ。そのため、どうしようもない自分をメシアに救って欲しい、という霊的飢え渇きを持っていたと考えられる。それは、異邦人の土地で財産をつかい果たし、ボロボロになって父親のもとに帰ってきた弟息子と共通する点がある。また、パリサイ人・律法学者は、表面的にせよ人に尊敬される立派な生活し、神に喜ばれる歩みをしていると思っていたのが、メシアであるイエスから霊的には一番遠かったという点は、兄息子に通ずる。

 現代の異邦人とイスラエルにも同じ構図を見ることができるのではないだろうか。旧約時代は、ヤハウェの神は異邦人にとって遠い存在だった。イスラエルと良好な関係を持つことでヤハウェから祝福されることはあっても、直に恩恵を受けることはなかった。しかし、教会時代に入り、イスラエル民族が救われる前に、救いは異邦人にもたされた。そして、その逆転現象は、さらに大きな恵みの逆転劇を生むことになる。ローマ人への手紙11章11節「…彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」異邦人の救いがイスラエルにねたみを起こさせ、やがてイスラエルは民族的にイエスをメシアとして仰ぎ見るようになる。そうなるまで、ヤハウェの神は、二人の息子を持つ父親が兄息子をなだめ続けるように、イスラエルに干渉し続ける。兄息子のようなイスラエルと弟息子のような異邦人が、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、ともに父なる神を礼拝するときが、必ず来る。
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